瞑想というと、皆さんはどのようなイメージを持つでしょうか。
多くの方が、
「瞑想する=頭を空っぽにする」
と考えているのが気になりますので、正しい瞑想を記しておきます。
「無になる」
「頭を空っぽにする」
という瞑想もあるのかもしれません。
確かに、雑念に囚われず頭を空っぽにすることができたなら、過去の苦しみからも解放されますし、未来の不安からも解放されますので、自分自身は楽になれるかも知れません。
これは「空観」の考え方です。
私が、私ではなく、この私の存在を否定しているだけなのです。
簡単に言うと「死んでいる状態」となんら変わりません。
死んでしまえば、すべての思考を放棄できますので、確かに楽にはなれるでしょう。
しかし、それでは役割も果たせませんし、生きている意味すらありません。
正しい瞑想というのは、
ひとつの物事について集中して考えることなのです。
しかも、連鎖思考ではなく、ネストを深く掘り下げる哲学的な思考形態で考えます。
例えば、
「自分は今、なぜ、怒っているのだろう」
↓
「分かって欲しいのに、分かって貰えなかったから」
↓
「そうか。私は、分かって欲しいという、期待をしていたんだ」
↓
「期待をすると、裏切られるんだ」
↓
「期待をしていなかったとしたら、どうだろう?」
「分かってくれなくてもいいや、と思っていたらどうだろう?」
↓
「別に、腹も立たない」
↓
「なるほど。私は期待を捨てる修業をしよう!」
という、深く掘り下げた思考を集中して行います。
これが、本来の瞑想なのです。
世の中の真理に気づいた瞬間を
「悟り」
と言います。
悟りを開いた瞬間は、アハ体験ですから、とっても気持ちがいいのです。
難問であればあるほど、気づけたときに「そうか!」という気持ちは大きくなります。
ドーパミンが一気に脳内を駆け巡るほどの気持ちよさです。
しかし、ここで終わりではありません。
瞑想に続いて必要なのが、修業です。
「誰にも、期待しない」
「誰にも、望まない」
「誰にも、こうして欲しい、と思わない」
解っていても、それが実行できなければ、人生は変わりません。
できるようになるまで、やり続けるのです。
これが実現できたら、とっても楽になります。
いちいち、イライラしながら過ごす人生とは大きく違ってきます。
それを「人格の成熟」と呼ぶのです。
「頭を空っぽにする」だけの人生とは、かなり違った生き方になると思いませんか?
余談ですが。
禅寺の瞑想で、何か棒みたいなもので肩をパシーン!と叩かれている場面を見たことがある方もいらっしゃると思います。
あれは、頭を空っぽにしていないから叩かれているわけではありません。
「雑念」が入っているから叩かれるのです。
「考えるべきことを、集中して考える」ことが大切なのであって、
その途中に「足が痺れたなぁ」とか「お腹すいたなぁ」と考えるから、叩かれているのです。
さらに、余談ですが。
瞑想というのは、穴倉に閉じこもって座禅を組まなくても大丈夫です。
実際には、どこでもできます。
歩きながらでも、車を運転しながらでも、ご飯を食べながらでも、やろうと思えばできます。
当院の心理カウンセリングの根底には、このような考え方も含まれています。
文字で読むと、とっても難しいと思いますが、
実際にセッションに来て頂いた方には、解りやすく簡単に理解できるようにご説明しています。
もし、本当の瞑想を知りたい方は、ぜひいらしてください。
一緒に悟りを開きましょう。
Auther:水元和也